step4

「オレは、昨日の晩、確かに真央を抱いたよ。」
そう剛史から聞かされて、真央が自分の身体を見回せば、身体のあちこちに剛史が付けた赤い花が残っている。
「最初は嫌がってなかったから...真央は、オレをちゃんと受け入れてくれたと思ってたんや...」
「ご、ごめんなさい...」
「真央が謝ることやない。確かに最後の方の真央おかしかったし...オレが気かついてやれんかったんもいかんのや。ごめんな、真央。」
以前に真央が言っていた。忘れてしまったクリスマスの記憶の話を剛史は思い出していた。
「ううん、剛史くんは悪くないの。きっとあたしが...」
泣き崩れる真央の身体を受け止めて、きつく抱きしめる。
「責めたらあかん。真央が自分のこと責める必要なんてなんもない。何か辛い思いしたんと違うか?せやのにオレ、真央のこと抱いてしもた。ごめんな。」
剛史は、真央を抱きしめながら何度も詫びた。自分が悪いんじゃないけれども、真央が自分を責めるのが判っていたから。だから...
セックスしたことを忘れるってことは、おそらくセックスに対する恐怖感ではないのだろうか?何か嫌な思いをしたんだろ。女の子がそう言う思いをするとすごく傷が深いと聞く。
だけど、夢中になって、のぼせてしまっていた自分には途中から変化した真央に気づきながらも、あの状態の自分には、真央の混乱ぶりまでもが乱れているようで、煽るだけの物でしかなかった。
それに真央は初めてではなかったし、ちゃんと感じていたような気がする。
身体も怖がる割にはちゃんとイイ反応をしていた。抱かれ慣れてるのでは、とすら思ってしまった...
「前にもあったって言ったよな?もうちょっと詳しく聞いてもええか?あんな、オレも一時期精神的に参ってしもて、現実から逃げ出しかけたことがあるんや。その時に色んな人に助けられたし、いっぱい聞いてもろた。それでも解決できない部分は専門の先生に見てもろたんや。真央は今までに先生にかかったことはなかたんか?」
「...うん。今まで、こんなこと言える人なんかいなかった...だから、あたし、ずっと、黙ってたの。」
真央はぽつりぽつりと話し始めた。覚えていない去年のクリスマス。けれどもその前から何度もあったのだと、真央は覚えている限りのことを話した。
今まで話したことのなかった自分の生い立ちもすべて...
自分が不幸だと自慢するつもりはなかったけれども、真央は知って欲しいと思った。剛史にはすべて知って欲しいとそう思ったのだった。


真央は3歳の時に母親を亡くし、父親しか知らずに育った。
その父親は会社役員をしていたので、家は比較的裕福で、家政婦を雇い家のことは何一つ困らなかったが、真央はかなり寂しい思いをした。
父が周りの勧めもあって、今の義母と再婚したのは真央が5つの時だった。
真央はうれしくて、義母に気に入られようと、必死で言うことを聞いた。
最初は優しい振りをしていた義母だったが、自分の子が出来、父親が真央をあまりにも可愛がるのを見て態度を激変させた。父親の居ないときに真央をひどく疎外し、一切構わなくなっていった。忙しい父親はそんなことには気付かず、真央も心配かけまいと口にはしなかった。
クリスマスにちょうど連休が取れたと、前日から小さい弟二人を連れて海外へ出掛けた時も、真央だけ置いていかれてしまった。それに気がついた父親が、使用人すら帰されて誰もいない家で一人居た真央に気付き、急ぎ戻ってくれたことまでは覚えているのにその後は全く覚えては居ない。
父親は母似の真央を溺愛していたのに、その日を境に一切近づいてはこなくなった。
それがなぜなのかは真央にもわからなかった。真央にはその後の記憶がなかったからだ。それから3日間、高熱でうなされていたらしく、気がついたときには12のクリスマスの記憶がなかったからだ。

よく現実逃避をする真央は、時々嫌なことから逃げようとして、知らないうちに街に出ていたり、いつの間にか部屋に戻ってヴァイオリンを弾いていたりしていたことがあったが、まるまる3日間記憶がないのは初めてのことだった。
それからは父親の態度まで変わってしまい、真央はどうすることも出来ない自分を、ひたすらヴァイオリンを弾くことで納得させていた。真央にとって忘れられればそれでよかったのかもしれない。
それからも何度かそんなことがあった。きっかけすら忘れてしまってるので理由はわからない。だから、それがどれほど重要なのか今まで判らなかった。まったく覚えてなかったのだから...

「今回のもそうだったのかな...でも、あたし、思い出したいの。剛史くんの物になったこと、忘れたくない...また、同じこと...繰り返したくない。」
「真央...真央が忘れたって何度でもオレは真央を抱くよ?真央が覚えてくれるまで何度でも...けど、そのことが真央を苦しめてるんなら、オレは真央を救ってやりたい。らくにしてやりたいんや。」
「あたし...あたし...」
怖いのは事実だった。思い出そうと思って思い出せるものではないし、身体から力が抜けていくほどの恐怖感すらある。
だけど...
この見えない恐怖はどこから来るんだろう?
「あ...っ」
過去の記憶をたぐり寄せようとするだけで奈落の底に落ちていきそうな喪失感を味わう。
「真央っ!」
がちがちと震え出す真央を全身で守るようにして抱え込む。
「真央、今は無理せんでええねん。無理せんでいいから...」
何度も繰り返す剛史の声に真央は安堵して眠りについていく。
彼女の背負った物が小さくないことに、剛史は気がついていた。
背負いきれるだろうか?決して強いとは言えない自分に...
彼女を支えきれるだろうか?自分が。
剛史は自分が落ち込んだことのある精神奈落の縁を思い出す。
芸能界にはいって、身体的にも精神的にも限界がきた時に、はまりこんだあの自分の症状ですら、軽症の部類と言われた。あれほどのたうち回ってはい上がったあの時ですら...
あの時は自分には晃一がいた。
晃一が剛史のことを信じて待っててくれた。だから自分は立ち直れたのだ。
今度は自分が、真央の支えになるのだと、抱きしめた身体が眠りについてからも、ずっとそれだけを考えていた。


「記憶障害?」
オレがかかったことのある精神科医というよりもセラピストである普段着を着た女医は、街の雑居ビルの一角にクリニックを開いていた。アメリカでも勉強してきたことがあるという、うちの事務所の副会長のしずくさんの友人だそうだ。
「ええ、何らかの忘れたい<嫌な記憶>を自分で消去してしまってるのね。これは自己防衛機能だから、そのままでよければ無理はしない方がいいわ。でも、治したいのね?」
「はい...」
弱々しい声で、必死に返事する真央に、オレは付き添っていた。
「どうすれば、いいんですか?」
「まずは何度か通ってください。真央さんがあなたに話したように、すべてをわたしに話してくれて、その糸口が掴めるように何度でも。まずはそこからなんです。」
精神治療には信頼関係(ラポール)が必要だということは、何度もいい聞かされていた。最初は付き添っていた剛史だったが、真央の一人でも大丈夫の言葉に共に行動するのをやめた。
そうすることは、剛史にとっては、すごく目立つ行為なのだ。たまに予約時間に待ち伏せたりはしたが...こういった精神治療には、家族や身の回りの理解がすごく大事なのだから。
剛史にとって、今の自分は真央の家族同然だと思っているのだ。

いつか...

そう思っている自分がいた。
まだずっと先のことなのに...真央には誰もいないから
だからオレが...
オレがいるんだ、真央。
真央のすべてを包めるようになりたい。
たとえどんなことがあっても、真央を守り抜ける力が欲しい...
ただのアイドルではそれが不可能なのが判っている。スキャンダル一つでどん底に落ちていくのだから。ましてや晃一とコンビを組んでる限りは、自分の迷惑がヤツにかかってしまう。
自分以上に芸能界にこだわり、どこまでも昇りつめようとしてるオレの相棒。
何もかも守れるだけの自分になれたら...そう願い続ける剛史だった。


「剛史くん、君に会いたいって人が来てるんだけど...弁護士の佐山さんって人。知り合い?」
弁護士?佐山?聞き慣れない名前に戸惑いながらもスタジオの出口に向かった。
「あ、あなたは...」
長身を折って挨拶するスーツ姿の男はクリスマスの日に真央の部屋で紹介された弁護士だった。
「澤井剛史さんですね?少しお話よろしいでしょうか。」
剛史は自分の出番も終わっていたので、急いで自分の控え室に通した。晃一は今から撮りがあるからしばらくは戻ってこない。同席しようとするマネージャーを押しやり二人だけで話そうとした。
内容は決まっている。真央のことに違いないのだから。
「突然失礼致します。わたは真央様の、風間家の顧問弁護士をしております、佐山寛人ともうします。」
渡された名刺には、佐山法律事務所 代表弁護士と肩書きがふってあった。
「代々弁護士の家系ですので、小さいながらも親の代からの事務所です。」
どう見ても30代後半、もしかしたら落ち着いて見れるだけで、実際はもっと若いのかもしれない。
「こんなところまでこさせて頂いたのは他でもありません。真央様と別れて頂きたい。」
「え...」
突然の申し出に剛史は思わず思考を横殴りにされた気がした。
「これは弁護士としてでなく、婚約者として正当な申し出です。これ以上真央様に関わってあなた方のスキャンダラスな世界に晒したくない。おわかりですよね?」

真央に婚約者...
剛史はしばらく何も答えられなかった。