step5


婚約者...
そんな話は聞いていなかった。けれども、その男の自信ありげな態度は剛史の不安を煽った。
あの時...
クリスマスに男が尋ねてきたにもかかわらず、この男は何も言わなかった。それって、真央が知らないってことじゃないのか?
「信じられないって顔されてますね。これは真央様のお父様が遺言に残されたことです。もっとも、真央様はお父上に関する記憶は幼少の頃を覗くとほとんど忘れてらっしゃるでしょうけれどもね。」
まさか、この男は真央の記憶障害のことも知っているのか?
「真央様がどなたと付き合おうが、それは構いませんがね、あなたはまずい。彼女を週刊誌などという下卑た雑誌に載せるわけにはいかないのですよ。彼女とは今後一切関わらないで頂きたい。事務所の方にもそうお伝えしておきます。よろしいかな?」
高飛車な男の物言いに剛史は拳を握りしめてその理不尽な言いように対する怒りを堪えていた。この男に対する得も言われぬ不信感、嫌悪感...
「気に入らないな...」
「晃一!」
機材の影から現れた晃一は、その優しげに見える王子様顔を凄ませて低い声を出した。晃一も同じ関西出身なのだ。なのにこう言うときに限って使う標準語は凄みがあった。
「まるで他人事、惚れてる女のことを語ってるようにも見えない。あんた何様だ?惚れてもいない女を婚約者だと言い張るだけの利益があんたにあるってわけか?あー、気に入らないね。」
「わたしも気に入りませんね。あなたは全く関係がないはずだ。今はこちらの澤井さんとお話ししてるんですから。」
「20過ぎた大人が誰とどうしようと自由なはずだ。遺言の場合は権利を放棄すれば聞く必要はないだろう?選ぶのはあんたやない、彼女の方違うんかな?」
「ふっ...」
最後はかっちり関西弁で凄むあたり、ファンには見せられない度胸の据わりようだった。だが、軽く笑うとしたたかな笑みを返してきたのだ。
上手...かなりの修羅場、いや、裏を見てきた男だろうか?剛史は自分が強く出れずに俯いていくのが判る。
自信なんて、どこにもない...いつもそうだった。
そしてやっと手に入れた自分の片翼、真央を引き離そうとするこの男に、刃向かっていく材料は何一つ無い。地位も名誉も、真央の居る世界では、自分の持つモノすべてが意味のない価値なのだ。
「彼女、処女じゃなかったでしょう?」
「なっ!!!」
「あの歳で、あの狭さには参りますが、セックスするには十分だったでしょう?相変わらず慣れてない仕草はそそりますが、もう少し熟してくれた方がわたしは...」
一瞬...殴ろうと身体が前に飛び出していった。だけどその腕は晃一によって止められていた。
「あかん、コイツの狙いはおまえに暴力振るわすことかもしれん。今はこらえろや...」
「晃一...」
頭に昇った血を、晃一の言葉でクールダウンしていく。自分が何かしでかすと、必ずこの相棒に迷惑がいくのだ。いくら事務所の力が強くても、限界はある。自分たちがしっかりしていないと、落とし穴はいくらでもあるのだ。そこにはまりこんで浮上できなかった芸能人はいくらでもいる。
「真央は渡さへん。彼女があんたをえらぶちゅうんやったら別やけどな。あいつがあんたのことを思ってないのは判る。あんたも真央のこと思てないのもな...」
佐山を見据える二人は同じ怒りの色を灯していた。そう、晃一も、この男に対して敵意をむき出しにするほど...この虚空の世界で生きているからこそ、本質を感じとることの出来る二人は、この男から放たれる悪意を感じていた。
金銭欲、名誉欲、手に入れないモノがあがいて、醜い面をさらけ出す芸能界の裏側を10代の頃からずっと見てきたのだ。そしてその身にも幾度と無く受けていた仕打ち。甘えた世界ではないことはよくわかっている。だからこそドラッグに手を出すヤツや女や同性に走るモノもいる。
この男からは何かを得るための欲に絡んだ匂いがした。
「くっ...今日は、これで失礼するよ。」
二人の視線の尋常でない怒りのオーラに怯んだ男は背を向けて去っていく
「あいつ、何か企んどるで...」
同じ背丈の晃一がすぐ横でそう呟いた。
「ああ、なんか、おかしいんや...真央の話やと自分はもう、親の会社とは関係ないってゆうてたのに...」
「おまえは、下手に動くな。俺が上の人に聞いてみる。藤堂さんか榊さんに聞いてもええし...おまえはそう言うの苦手やろ?真央ちゃんのことも心配やから、早めに帰ってやれよ。」
「ああ、すまんな、晃一...」
「俺らかて、伊達にこの世界の飯食ってきたわけとちゃうとこ、見せたるわ。」
にやりと笑う、この顔は王子様ではなく、芸能界で戦い抜く騎士の顔だった。


「お帰りなさい!」
「真央?」
真央は俺の部屋で待っていた。もちろん、先日鍵を渡していたからだけど、珍しい...
「どないしたんや?」
「ん...えっとね、佐山さんがマンションに入っていくのが見えたから...ちょっと怖くて...」
「まさか、あの人真央の部屋の鍵持ってるんか?」
「う、うん、後見人だからとかいって...持ってるみたいで...でもあたしが居ないのに部屋に勝手に入っていくの見たら怖くなって...」
「あいつ...。なあ、真央はもう20歳超えてるから、後見人なんかいらんはずや。しばらくこっちにおりな?鍵も業者にゆうて変えて貰うから...絶対あいつと二人っきりになったらアカンで?」
「どうかしたの...剛史くん?」
「あの佐山言う弁護士、俺トコに来たんや。それも出演中のテレビ局の楽屋に...おまえと別れ言うてな。自分のこと真央の婚約者やゆうて名乗ったんや...」
「うそ...何で佐山さんが?」
「真央、あいつと、なんか...あった?」
「なんで?何もないよ?だって弁護士さんだし、パパが亡くなったときにお世話になっただけだし、なのに婚約者だなんて...そんなこと何も聞いてないわ。」
「ほんまか、真央?」
「うん、だって、パパが亡くなるまではそんなに会ったこともなかったはずで...あ、そう言えば、去年のクリスマス...来てた?でも、あの人が尋ねてきてから...あたし、その後の記憶がなくて...確かに何年ぶりかにみんなと一緒にクリスマスさせて貰ったのに...パパから貰ったプレゼントも無くなってて...あたし、気がついたら街を歩いてて...全部あたしの都合のいい勘違いだったのかなって...」
やっぱり...と剛史は直感した。
(あいつは、真央を無理矢理...いや?もしかしたら真央は...)
頭の中を駆けめぐる妄想の中の彼女はあの男に翻弄され、自分が抱いたときのように身体で答えたのだろうかと...そんなはずはない、真央は、あの男に不安感を持っている。同じに抱いてたとしても、真央は自分には変わらず心を許してくれているではないか、それは、間違いなく真央も自分を好きでいてくれている証拠だと、剛史は信じていた。カウンセラーの先生も、剛史の協力なしでは治療も難しいかもと言われている。
「あたし...」
「真央は考えんでもええ...思い出せへんのは思い出したくないからやろ?思い出すんやったら、俺とのこと思い出したらええから、な?」
不安そうに揺れる真央の瞳を見ていられなくて抱き寄せる。いつもより強く、腕にチカラをこめて...
「つ、剛史くん...あのっ...」
「わかっとる、カウンセラーの先生がええいうまでは抱かへん...けど、抱きしめるぐらいは、ええやろ?」
「ちがうのっ!不安なときに抱きしめられると安心するの...剛史くんなら...あたし、いいよ?でも覚えていたいから、また記憶がなくなるなら...」
「無理せんでええ、俺は記憶が無くなる真央を無理に抱きとうない。ちゃんと俺を感じて、喜んでくれる真央が欲しいんや。」
「でも、鍵、変えて貰うまでの間あたしがココにいたら...」
「かまへんよ、我慢ぐらいいくらでもする。」
「でも...」
「なんや?どないした、ゆうてみ?」
剛史は真央の瞳をのぞき込んで優しくその頬に触れた。
「先生が...好きな人相手に、少しづつ試してみたらって...」
「それって...もしかして、えっちのこと?」
「う、うん...」
「...ええのん?」
「...ん、つ、剛史くんなら...」
「ほんまに?」
「ほ、ほんまに...」
剛史の関西弁を思わず繰り返す真央が可愛らしくて、思わず剛史は吹き出した。
「イントネーションおかしいで?『ホンマに?』が正しいんや。」
「えーっ、そんな言い方出来ないよぉ!」
いつもの元気な真央にの声に戻っている。
「ほな...真央が欲しいから、食べてもええか?」
「うん...食べて?」

真央のその言い方に、愛おしさが溢れて、剛史は真央を抱きしめて何度もその髪にキスをした。
「忘れられへん夜にしてあげるから...」
剛史をじっと見つめる真央にそう言うと、その顎を持ち上げて唇を合わせる。
「うん、あたし、今日は絶対に目瞑らないよ。全部ちゃんと、見て覚えてるから...」
「そしたら俺もずっと目開けてるで?」
「ええ?それって恥ずかしいよぉ!」
「お互い様やん、その代わり、全部みしてな?俺も全部見せるから...」
裸の、何の格好も付けてない素の自分をさらけ出せるのは、真央の前だけだからと耳元で囁いた。この部屋で暮らすなら、伝えなくてはいけないことがあるから...